Because You Are Precious
あなたは高価だから
John 4:4-9
ヨハネ4章4節〜9節


Last month we started to look at a meeting between Jesus and a Samaritan woman.
先月から私たちはイエス様とサマリアとの女性の出会いについてみてきました。

This meeting was recorded by Jesus’ disciple, John.
この出会いはイエス様の弟子のヨハネによって記されました。

And, if you remember, we’re focusing on how John describes Jesus.
私たちは、ヨハネがイエス様のことをどのように表現しているか、注目しています。

John records this meeting to teach us who Jesus is.
ヨハネは、イエス様が誰であるのかを私たちに教えるために、この出会いを書き記しています。

So, as we read through this story, I want to look carefully at what Jesus does;
だから、私たちはこの物語を読むとき、イエス様が何をなさるのか、注意深く見ていきたいのです。

Because, as we have confirmed, Jesus does what He does because of who He is!
なぜなら、私たちが前回確認してきたように、イエス様は神様ご自身なのでそうなさるのです。

Let’s look back at how John introduces Jesus at the beginning of his gospel.
では、ヨハネが福音書の最初にイエス様をどのように紹介しているか、見てみましょう。

The Word (Jesus) became flesh and made his dwelling among us. We have seen his glory, the glory of the One and Only, who came from the Father, full of grace and truth. (John 1:14) ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

From the fullness of his grace we have all received one blessing after another. (John 1:16) 私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。

By the way, the word “gospel” means good news.
ところで、「gospel、福音」という言葉は、『良い知らせ』を意味します。

The first four books of the New Testament are called The Gospels.
新約聖書の最初の4つの書は、『福音書』と呼ばれています。

They record the meaning, the purpose, of Jesus’ work in this world 2000 years ago.
そこには2000年前のこの世界でのイエス様の働きの意味、目的が記されています。

And this work is declared to be ”good news.”
そして、この働きは、『良い知らせ』と言われています

John tells us that Jesus came from the Father.
ヨハネはイエス様が天のお父様の元から来てくださったのだと教えています。

Jesus came, full of grace and truth.
イエス様は、恵みと真に満ちておられ、来てくださいました

In Jesus, John confesses that they saw the fullness of God’s glory.
イエス様の中に神様の栄光が満ちておられることを拝見した、とヨハネは告白しています。

And he continues that, from the fullness of God’s grace in Jesus, they had received one blessing after another.
そして、イエス様の中にある神の満ち満ちた恵みの中から、恵みの上にさらに祝福を受けた、とヨハネが続けて語ります。

This is the gospel.
これが福音です!

This is the good news.
これが良い知らせです。

The good news is that, in his grace, Jesus came from God, to bless us.
良い知らせとはそのことです。イエス様の恵みの中で、イエス様は天のお父様の元から来てくださいました。私たちを祝福するためです。

The meeting between Jesus and the Samaritan woman is recorded so that we will know this good news ourselves;
イエス様とサマリアの女との出会いは、私たちもこの福音を知ることができるように記されています。

So that we would receive this good news ourselves;
私たち自身がこの福音を受け取ることができるように

So that we would personally experience the fullness of God’s grace and truth in our own lives.
私たちは私たち自身の人生の中で神様の恵みと真実を個人的に経験するように、と書かれました。

This Samaritan woman had gone to the well to draw water.
このサマリアの女性は水をくむためにその井戸に行きました。

Getting water from the well was women’s work.
井戸から水をくむことは、女性の仕事でした。

But it was noon.
しかし、それは正午でした。

It was hot.
暑い時間帯でした。

There would be no one else there at that time.
その時間には、そこにはほかに誰もいないはずでした。

All the other women from town went to the well in the cool of the early morning and evening.
その町に住むほかの女性たちはみな朝方や夕方の涼しい時間にその井戸に行くものでした。

But this woman didn’t want to go when there were other people at the well.
しかし、この女性は、ほかの女性たちがその井戸にいるときにそこには行きたくありませんでした。

She had chosen to go by herself.
彼女は一人でそこに行くことを選んでいました。

She didn’t fit in with the other people.
彼女はほかの女性たちといっしょにいることがうまくいきませんでした。

She had no place together with them.
彼女らの中には居場所がなかったです。

This woman was unacceptable, rejected, isolated.
この女は受け入れられず、拒否され、孤立していました。

Nevertheless, this woman had to go to the well.
それにもかかわらず、この女は井戸に行かなければなりませんでした。

This was a very arid, dry place.
そこはとても乾燥した、水のないところでした。

The well was the only place to get water.
その井戸は水を手に入れられる、唯一の場所でした。

Today, in Japan, if you want water, you only have to turn on the tap.
今日の日本で、水がほしいなら、水道の蛇口をひねりさえすればいいでしょう。

Or you can easily buy water from a shop or vending machine.
或いは、店や自動販売機で簡単に水を買うことができます。

You can get drinking water anywhere at any time here;
日本では、いつでも、どこでも飲料水を手に入れることができます。

So it is very difficult for us to imagine the situation in this story.
だから、私たちにはこの物語の状況を想像することはとても難しいことなのです。

Water is necessary for living.
水は生きるために必要なものです。

You need it to drink, to cook with, and to wash and clean with.
水は飲むため、料理をするため、体を洗ったり、掃除や洗濯したりするためにも必要なものです。

But you could only get water by going to the well.
しかし、その井戸に行くことだけが水を手に入れる手段でした。

This particular well was famous.
この話に出てくる井戸は有名でした。

It was called Jacob’s well.
ヤコブの井戸と呼ばれていました。

This well, in fact, still exists today.
実際、この井戸は現在でも残っています。

The Samaritan woman herself indicated that the well was deep.
サマリア人の女性自身はその井戸が深い井戸であると指摘しました。

When it was excavated, they discovered that the well was, can you believe, 100 meters deep.
その井戸が発掘されたとき、信じがたいことに、その深さはなんと100メートルもあることがわかりました。

That is a very deep hole.
それはとても深いものです。

Can you imagine trying to pull a heavy container of water up from the bottom of a 100 meter deep hole?
100
メートルの穴の底から重い水の桶を引き上げることを想像できますか?

And it was the job of the women to do this.
そして、これは女性の仕事でした。

It was hard work.
それは大変な仕事でした。

Normally, the women were there together to help each other.本来なら、女性たちはお互い助け合うためにいっしょにいました。

They would support and encourage each other.
彼女たちはお互い支え合い、勇気づけ合ったことでしょう。

Each person would not have to struggle to pull their heavy bucket of water all the 100 m up out of the well by themselves.
一人で100メートルの深さから重い水の桶を引き上げるために苦労することはありませんでした。

Because they were there together, as one person got tired, another could take over the burden and give that person a rest.
なぜなら、彼女たちはいっしょに仕事をして、一人が疲れたら、ほかの人が重荷を引き受け、休息を与えることができたからです。

It would have been like traditionally planting rice fields in Japan.
それは日本の伝統的な田植えの作業のようなものだったでしょう。

Everyone gathers together to plant one person’s rice field.
みんなが田植えをする人の田んぼに集まります。

Then, they would move on to the next person’s rice field and plants that.
それから、みんなは次に田植えをする人の田んぼに移動し、苗を植えます。

In that way, all the rice fields would be planted, but no one had to bear the burden of planting a rice field by themseves.
そのように、すべての田んぼは苗が植えられました。誰も一人だけで田植え作業の重労働に耐える必要はありませんでした。

And at the well, while they were resting, the women would talk to each other.
そして、井戸では、彼女たちが休息をとる間、彼女たちはおしゃべりをしていたでしょう。

And they would listen to each other.
そしてお互いの話に耳を傾けたでしょう。

They could share together what was on their hearts.
彼女たちは心にあるものを共有することができたでしょう。

And in doing so, they could support each other in bearing the emotional burdens of life.
そうすることで、彼女たちは生活の中の精神的な重荷をお互いに支え合うことができました。

So, the well was the centre of community for those people.
だから、その井戸は彼女たちの暮らしのつながりの中心でした。

The well reminded the people that they were not alone.
井戸は人々に自分が一人ではないことを気づかせました。

The well reminded the people that they belonged.
井戸は、みんなに居場所があることを気づかせました。

Water was the source of their life in that dry desert;
水は渇いた砂漠の生活の源でした。

And they could share their lives together every time they went to get that water.
彼女たちは、水を手に入れるために出かけると、いつも生活を共有することができました。

But for this particular Samaritan woman it was different.
しかし、このサマリアの女性は違っていました。

The well was a reminder that she didn’t have these things.逆に、その井戸は、彼女がそれを持っていないことを気づかせるものでした。

She was different.彼女はみんなと違っていたのです。

She wasn’t a part of that community.彼女はそのコミュニティの一員ではありませんでした。

She didn’t belong.
彼女は仲間はずれでした。

So if she went to the well with the others, instead of talking with her, they would have just talked about her behind her back.
だから、もし彼女がほかの女性たちとその井戸に行くとしたら、みんなはサマリアの女性とは話さず、彼女についての噂をこそこそしゃべっていたでしょう。

And instead of having warm ears and hearts to listen to her, she would have just received their cold, condemning stares and the silent rejection of their backs.
そして、彼女の話を聞いてもらう温かい耳と心のかわりに、みんなの冷たい、非難のまなざしと静かに拒絶する背中を向けられたでしょう。

But this woman had to go to the well.
しかし、この女はその井戸に行かなければなりませんでした。

She had no choice.
彼女には選択の余地がありませんでした。

She needed water to live.
彼女は生きるために水が必要だったのです。

So, this woman went to the well in the middle of the day.
だから仕方なく彼女は暑い日中にその井戸に行きました。

It was really hot.
本当に暑い時間帯でした。

But she would sigh in relief when she got there because there was no one else there to condemn her.
しかし彼女はそこに着くとほっと安堵のため息をつきます。なぜなら、そこには彼女に苦痛を与える人が誰もいなかったからです。

But at the same time, every time she got there,
しかし一方、彼女はそこに着く度に、

because there was no one there,
そこには誰もいなかったから

she was again reminded that she was all alone.
彼女はいつも自分が一人ぼっちであることに、また気づかされました。

She didn’t belong.
彼女の居場所はどこにもなかったのです。

There was no one to talk to.
話をする相手は誰もなく、

There was no one to hear her.
彼女の話を聞いてくれる人もいませんでした。

There was no one to help her carry her burdens.
自分の重荷を共に背負ってくれる人はいませんでした。

She was indeed isolated.
彼女は本当に孤立していました。

So, she must have been very surprised to realize that someone else was at the well that day.
だから、彼女はその日、ほかの人がそこにいることが分かって本当に驚いたに違いありません。

She had gone to the well in the daytime to avoid meeting people.
彼女はほかの人に会うことを避けて、わざわざ日中の時間帯にその井戸に行きました。

But there was Jesus, sitting on the wall of the well.
しかし、その井戸のふちにイエス様が座っておられました。

There was no way for her to avoid him.
イエス様を避けることは彼女にはできませんでした。

There was nowhere to hide.
隠れる場所などありませんでした。

And then Jesus asked her a question.
そのとき、イエス様が彼女に話しかけました。

He asked her for some water.
イエス様は彼女に水がほしいとおっしゃいました。

The Samaritan woman was surprised.
サマリアの女性はおどろきました。

She didn’t want to see anyone at the well.
彼女はその井戸で誰にも会いたくありませんでした。

She hadn’t been expecting a conversation.
彼女は会話することなど期待していませんでした。

She couldn’t believe that that person at the well spoke to her.
井戸のふちに座っているその人に話しかけられるなんて信じられませんでした、

If you know any American history, you will remember that American society used to be completely segregated between Anglo-Saxons and African-Americans.
アメリカの歴史をご存知なら、かつてアメリカの社会はアングロサクソン人とアフリカ系アメリカ人が完全に差別されていたことを思い出すでしょう。

So-called whites and blacks.
いわゆる白人と黒人です。

Whites consider themselves superior, blacks inferior.
白人は自分たちを優っているものとみなし、黒人を劣ったものとしました。

So whites segregated society between the two races:
だから白人は二つの人種の間の社会を差別しました。

Schools and workplaces were segregated;
学校も働く場所も分けられました。

Public transportation and eating places were separated;
公共交通機関もレストランも分けられました。

Even drinking fountains were separated.
水を飲む場所さえも分けられました。

So blacks were forbidden to drink from drinking fountains that were designated for white people.
そのため黒人は白人用の水飲み場から水を飲むことを禁じられました。

That’s because white people thought black people would contaminate the water.
それは、白人は黒人が水を汚ごす、と考えたからなのです。

And white people would therefore under no circumstances drink from a black person’s fountain.
そして、絶対白人が黒人の水飲み場から水を飲むことはありませんでした。

Now, if we can put these two kinds of situations together, it's as though Jesus was white, but he has gone to a black persons fountain for a drink.
さて、この二つの状況から、イエス様が白人としたら、その人が黒人の水飲み場に行ったようなものでした。

But he did not just ask for permission to get a drink.
しかしイエス様は飲み物を手に入れるための許可を求めただけではありませんでした。

He actually asked the woman for a drink from her own bucket.
イエス様はサマリアの女性の桶から飲ませてほしいと頼みました。

In other words, Jesus says: "Will you give me a drink from your own cup please?"
つまり、イエス様は、「あなたのコップから飲み物を私にくれませんか」とおっしゃったのです。

The woman was naturally surprised.
サマリア人の女性は当然におどろきました。

She said to him:
彼女はイエス様に言いました。

  • "You are a Jew and I am a Samaritan woman how can you ask me for a drink?” (For Jews do not associate with Samaritans.) (John 4:9)
    そこで、そのサマリヤの女は言った。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」‐‐ユダヤ人はサマリヤ人とつきあいをしなかったからである‐‐(ヨハネ4章9節)

The word "associate" here actually means share or use together.
ここに出てくる付き合うという言葉は、「共有する」とか「いっしょに使う」という意味です。

So, how could Jesus be saying that he actually wanted to drink from this woman's water bucket?
一体どうしてイエス様はこの女性の桶から水を飲みたいとを言うことができたのでしょう?

That just wasn't done.
それはあまりにもありえないことだったからです。

In fact, I recently heard that the prejudice of the Jews against the Samaritans was so strong that if, for example, a Jew was lost in the desert;
私は最近ユダヤ人の、サマリア人への偏見がどんなに強いものであったかを聞きました。たとえば、ユダヤ人が砂漠で迷い、

and he was dying of thirst;
のどの渇きで死にそうになり、

and if he didn't get a drink in the next 30 minutes he would certainly die;
30
分以内に水を飲まないと、確実に死んでしまうとしても、

and then a Samaritan came with a cup of water and offered it to him;
そこにサマリア人が水を持ってきて、彼にすすめてくれても、

instead of receiving that drink;
水を受け取る代わりに、

he would have kicked the drink away, declaring that he would rather die than receive water from a Samaritan.
彼は水を蹴って遠ざけ、サマリア人から水を受け取るくらいなら死んだ方がましだと言ったでしょう。

And yet here, Jesus has actively asked this woman to give him a drink from her own bucket.
それにも関わらず、イエス様は進んでこの女性に彼女自身の桶から飲ませてくれるように頼みました。

Why did he do this?
イエス様はなぜこのようにしたのでしょう?

Was Jesus really so desperate for a drink of water?
イエス様は本当に水が飲みたくてたまらなかったのでしょうか?

If we jump ahead for a moment to the end of this short conversation, we read that Jesus’ disciples returned to the well while Jesus and the Samaritan woman were still talking.
一瞬、この短い会話の終わりの部分に飛んでみますと、イエス様とサマリアの女性がまだ話しているときに弟子たちがその井戸のところに戻ってきました。

If Jesus had really been so thirsty, He would have asked some of His disciples to stay and draw some water.
もし、イエス様が本当にのどが渇いているなら、イエス様は弟子をそこに残らせ、水をくませたでしょう。

But He had sent them all into the town to buy food;
しかしイエス様は弟子たちすべてを食べ物を買いに町まで行かせました。

and He knew that they would come back soon.
そして、彼らがすぐに戻ってくることを知っていました。

It wasn’t a long time.
そんなに長い時間ではありませんでした。

So, he could have waited.
だから、イエス様は待つことができたはずでした。

Jesus didn’t "have to" ask the woman for a drink
イエス様は飲み物を女性に頼まなけれまならなかった、というわけではありませんでした。

Jesus didn't really need to get that drink for His own benefit.
自分自身のために飲み物を手に入れる必要はなかったのです。

But, just in the same way that he "had to" go through Samaria;
しかし、イエス様は「サマリアを通らなければならなかった」のと同様に、

Jesus also "had to" ask the Samaritan woman for a drink –
イエス様はそのサマリア人の女性に飲み物を頼まなければならなかったのです。)

for her benefit.
それは、彼女のためにです。

  • "Will you give me a drink?” (John 4:7)
「わたしに水を飲ませてください」(ヨハネ4章7節)

Everyone, everyone considered this woman to be unclean.
みんな、すべての人がこの女性が汚れた存在であると考えていました。

No one associated with her.
誰も彼女を仲間にしようとしませんでした。

No one shared with her.誰も彼女と分かち合おうとしませんでした。

She wasn’t good enough.
彼女は失格者でした。

She was an outcast.
のけ者でした。

But Jesus went to her.
しかしイエス様は彼女のところに行きました。

Jesus engaged her.
イエス様は彼女とかかわりました。

He spoke to her.
イエス様は彼女に話しかけました。

He asked her for a drink.
彼女に水を飲ませてくれるように頼みました。

A drink from her own container.
彼女自身の器から。

Jesus was declaring to her: “You are NOT unclean!”
イエス様は彼女に定めました:「あなたは汚れていません!」

You have value.
あなたは価値のある人です。

You are valuable to me.
あなたは私にとっては高価です。

You are important to me.
あなたは私にとって大切な人です。

It was a public place.
そこは公共の場所でした。

Anyone could have seen them.
誰に見られてもおかしくない場所だったので、誰かがイエス様とサマリア人の女性が話しているのを見かけたかもしれません。

Jesus was demonstrating that drinking from her container would not contaminate Him.
イエス様は、彼女の桶から水を飲むことがイエス様を汚さないことを明らかにしていました。

He was showing that she was not unacceptable to Him.
イエス様は、彼女がご自分には受け入れられない者ではないことを示していました。

No matter what anyone else around them thought about that woman…
たとえ、ほかのだれがその女性についてどう思おうとも

Jesus was boldly and publically declaring that, not only was she not unacceptable to Him…
イエス様は大胆に、オープンに、ご自分にとっては彼女は受け入れられない存在ではないだけではなく、

she was actually a blessing to Him!
ましてや、彼女は実はイエス様にとっては恵みの存在でした。

John had declared:
ヨハネは述べていたように:

  • From the fullness of his grace we have all received one blessing after another. (John 1:16)
私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。(ヨハネ1章16節)

The amazing blessing that Jesus is pouring out on this woman now is to show her what her true value is.
イエス様がここでこの女性に注がれていた驚くべき恵みは、彼女の本当の価値を彼女に示したことです。

She was not alone.
彼女は一人ではありませんでした。

She was not rejected.
彼女は拒絶されたわけではありませんでした。

She was precious and honoured in Jesus’ eyes.
彼女はイエス様の目に高価で尊いものでした。

She belonged to God.
彼女は神様のものでした

Her very existence was indeed a blessing to God.
彼女の存在そのものは本当に神様によろこばれました。

This is what the Samaritan woman really needed to know.
このことが、サマリア人の女性が本当に知るべきことでした。

Jesus declared:
イエス様は宣言されました。

  • “The truth will set you free.” (John 8:32)
「真理はあなたがたを自由にします。」(ヨハネ8章32節)

Until now, the only truth that she had known was her failure; her weakness; her desperate loneliness and hopelessness.
これまで、彼女が知っていた真実は自分の間違いであり、弱さでした。自分の耐えがたい寂しさや絶望でした。

There was no freedom in that truth.
その真理には自由はありませんでした。

But now, Jesus was teaching her another truth.
しかし今、イエス様は彼女にほかの真理を教えていました。

It was the truth of her real value, in spite of herself.
それは、自分自身が気づかなかった、彼女自身の価値でした。

John tells us that Jesus “had to go through Samaria.”
ヨハネは、イエス様は「サマリアを通らなければならなかった」のだと私たちに教えています。

Jesus “had to” meet with that woman.
イエス様はその女性に「会わなければなりませんでした。」

That’s because this woman desperately needed to know this truth about herself.
それは、この女性は本当に彼女自身の真理について知る必要があったからです。

This truth was filled with hope.
この真理は希望に満ちています。

It would replace her fear with courage.
彼女の恐れを勇気に変えるものです。

It lifted her out of her isolation and immersed her in personal, healing, relationship.
彼女を孤立から引きあげ、彼女を個人的に、癒しの関係の中に満たすものです。

And this is the truth of God’s grace for us.
これが神様の私たちのための恵みでもあります。

Late in His life, John wrote:
後にヨハネはこのように書きました。

  • There is no fear in love. But perfect love drives out fear, because fear has to do with punishment. The one who fears is not made perfect in love. (1 John 4:18)
    愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。(ヨハネ第一四章18節)

Jesus declares:
イエス様は宣言されます。

  • The truth will set you free.
    「真理はあなたがたを自由にします。」(ヨハネ8章32節)

We like to think that we have freedom.
私たちには自由があると考えたいです。

It is true that we are free to do many things that we want to do.
私たちが多くのやりたいことをする自由があるのは事実です。

But perhaps a truer (more accurate) measure of the level of freedom we have in our hearts is when we are faced with something that we do not want to do.
しかし、私たちの心の中の自由のレベルのもっと正確な物差しは、私たちがやりたくないことに直面したときのことでしょう。

When things don’t go our own way;
物事が自分の思うようにいかないとき、

When we are suddenly faced with unexpected problems;
突然予想していなかったことに直面したとき、

When difficult people test our patience;
気難しい人が私たちの忍耐力を試すとき、

or we feel hurt or abandoned by those closest to us;
あるいは身近な人によって心を傷つけられたり、見捨てられたと感じるとき、

at those times, do we have the freedom in our hearts to respond in love?
そういったときに、心の中に愛を持って対応する自由があるのでしょうか?

Or do we react out of fear?
それとも、恐れから反応してしまうのでしょうか?

  • There is no fear in love. But perfect love drives out fear, because fear has to do with punishment. The one who fears is not made perfect in love. (1 John 4:18)
愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。(ヨハネ第一四章18節)

If we are reacting, rather than responding;
もし私たちが対応というより、反応するのなら、

if our hearts are controlled by fear rather than conformed by love;
私たちの心が愛によって形成されているより恐れに支配されているなら、

then we need to learn the truth of God’s love for us.
神様の私たちへの愛という真理を学ぶ必要があります。

Unless we really know that we are absolutely and perfectly loved,
自分が絶対的に、完全に愛されていることを本当にわかっていなければ、

our hearts will always be searching, fighting, to find that security.
私たちの心はいつもその平安を探し求め、それを得るために戦っているのです。

Jesus came to give us this security.
イエス様はその平安を私たちに与えるために来てくださいました。

He came to teach us, to show us, to fill us with, His love.
ご自身の愛を私たちに教え、私たちに示し、私たちを満たすために来てくださいました。

Jesus does this for us because of who He is.
イエス様はイエス様だからそうしてくださいます。

Jesus is the One who came from the Father.
イエス様は父なる神様の元から来て下さったお方です。

Jesus comes full of grace and truth.
イエス様は恵みとまことに満ちて来てくださるのです。

And Jesus comes to bless you.
イエス様はあなたを祝福するために来てくださいます。

Jesus wants to bless you because of who YOU really are:
イエス様は、あなたが本当に神様の大切な子供であるがゆえに、祝福したいのです。

You are important, valuable, precious to God.
あなたは神様にとっては大切な、高価な、かけがえのない存在です。

Jesus promises that this truth will set you free.
この真実はあなたを自由にします、とイエス様は約束してくださっています。


Father God,
天のお父様

I just want to thank you for loving us.
私たちを愛してくださり本当に感謝します。

No matter who we are
私たちはどこにいても

no matter what has happened in our past
私たちの過去にはどんなことがあったとしても

no matter what is happening in our lives now
今の私たちの人生にはどんなことが起こっているとしても

Your love for us never changes.
あなたの私たちへの愛が変わりません

You are always with us.
あなたはいつも私たちと一緒にいてくださいます

You always call us to Your side to comfort us, to sustain us, and to strengthen us
あなたはいつも私たちを慰め、支え、そして強めてくださるためにあなたのそばに呼び寄せてくださいます

Please help each of us to personally experience the satisfaction, and the peace of knowing we belong to You
どうか、私たち1人1人が個人的に、私たちはあなたのものであることによる心の満足、平安を体験することができますように

and to really know that we are secure in Your protection
あなたの御守りの中私たちは     であることが本当に知ることができるように助けてください。

Please pour out this blessing on everyone who has come here today.
今日来てくださったみなさんの上にこの恵みを豊かに注いでください。

In Jesus’ Name
イエスさまの御名によって

Amen
アーメン