Ok, today, I want to start by doing something completely different together with you all. 今日は、みなさんといっしょにまったくちがうことをやりたいと思います。
I want to play a game together. ゲームをしましょう。
The game is called “Imitation.” 『ものまね』というゲームです。
It’s probably a game that would work best with small children. 小さな子供たちとすると本当は楽しいゲームです。
So, the first thing that you have to do is find the small child within yourselves. だから、あなたがまずすることはあなた自身の中の小さな子供の部分を見つけることです。
Forget that you are adults. 自分が大人だということは忘れてください。
Don’t be shy. はずかしがらないで。
Don’t mind that there are other people in the room. この部屋にほかの人がいることも気にしないでください。
We all promise not to tell anyone else what happens here today. 今日、ここで何が起こったか、だれにも言わないと約束します。
And no one is allowed to upload any pictures or movies to Facebook! フェイスブックに写真や動画をアップすることも許しません!
Ok? いいですか?
Right. So, here’s how we play. では、ゲームのやり方を説明します。
I am going to tell you the name of a living thing. 私は生き物の名前を言います。
And you have to pretend to be that thing. その生き物のまねをしなければいけません。
You have to act out what you think that living thing does. その生き物がすることを考えて動かなければいけません。
Use gestures, and if you want, make some noise! ジェスチャーをしてください。鳴き声のまねもしていいですよ。
So don’t be shy! では、はずかしがらないでください!
May this be a time to explore your hidden creativity. 自分の中にある、かくれた創造性が見つかる時間になるかもしれません。
Use it to get rid of the stress of the past week. 過ぎ去った一週間のストレスを解消するための時間にしてください。
Have a good laugh at the person next to you… お隣の人のことを笑ってください。
No!! No. Just kidding there. だめ、ダメ、だめ!冗談はここまでにします。
So, let’s start with something simple. それでは簡単なことから始めましょう。
Everyone stand up please. みなさん、お立ちください。
I want you to pretend to be a bird. 鳥になってください。
Great. Now act like a monkey. すばらしい!つぎはサルになってください。
Don’t be shy! はずかしがらないで!
Trust me, I have a very good reason for doing this. 私を信じてください。こんなことをするのはちゃんとわけがあるんです。
Ok, how about a lion. それでは、つぎはライオンはいかがですか?
Next, be a bus driver. お次は、バスの運転手さんになってください。
Now I want you to be a world famous chef. それでは、世界的に有名なシェフになってください。
Ok, next, I want you to look like Leonardo da Vinci. では、レオナルド・ダ・ヴィンチになってください。
Good. Last one now. 最後です。
I want you to pretend to be Jesus. では、イエス様になってください。
Okay. Great. Thanks. You can sit down now please. すばらしい!ありがとうございました。おかけになってください。
What does it mean to look like Jesus? イエス様に見えるようにすることとは、どういうことでしょうか?
What could we do that would make us look like Him? イエスさまに見えるようになるために何をしたらいいでしょう?
There are many different ways that we can answer this. いろいろな答えがあるでしょう。
But it’s an important question. でも、これは重要な問いかけです。
It is important for us to know what Jesus is really like. イエス様が本当にどのようなお方であるのかを知ることは私たちにとって大切なことです。
And knowing what Jesus is like shows us what we should be like. イエス様がどのようなお方であられるかを知ることは、私たちがどうあるべきかを示します。
It shows us what we can be like. それは私たちがどうなれるかを、示します。 When we come to know who Jesus really is; イエス様が本当はどなたなのか、私たちが知るようになるとき、
when we come to know what Jesus is really like; イエス様が本当にどのような方なのか、私たちが知るようになるとき、
then we start to understand the amazing potential that God has created within us! その時こそが、神様が私たちの中に造りだしてくださった驚くべき可能性を私たちが理解し始めるときなのです。
We learn how God is working in our lives to shape us to reach that amazing potential. 神様がその驚くべき可能性に私たちが到達するために私たちの人生にどのように働いてくださるか、学びます。
A group of children playing this game was told to act like Jesus. このゲームで遊んでいる子どもたちのあるグループは、イエス様のように行動するように言われました。
One child immediately held their arms open wide in a hug. 一人の子供がすぐに、腕を大きく広げてハグのジェスチャーを示しました。
“That’s because Jesus is love and He loves me.” said the child. 「イエス様は愛です。イエス様は私を愛してくださいます。」と、その子供は言いました。
Another child bent down to the ground with his arms stretched out. ある子供は、かがんで腕を地面に向かって伸ばしました。
“Jesus is love and He reached down to help the weak.” 「イエス様は愛です。イエス様は弱いものを助けるために手をさしのべてくださいます。
A third child stretched their arms out wide in the shape of the cross. またある子どもは、十字架の形に腕を伸ばしました。
“Jesus is love, and He sacrificed Himself for me.” イエス様は愛です。イエス様は私のために犠牲になってくださいました。
What is Jesus like? イエス様はどのような方でしょう?
As we have been looking at the meeting between Jesus and this woman, we have been focusing on how John describes Jesus at the beginning of his gospel. イエス様とこのサマリアの女の出会いを見ているとき、私たちはどのようにヨハネが彼の福音書の出だしでイエス様について表現しているか、ということに注目していました。
Let's look again at what John said about Jesus there. その箇所で、ヨハネがイエス様について何を記しているか、もう一度見てみましょう。
The Word became flesh and made his dwelling among us. We have seen his glory, the glory of the One and Only, who came from the Father, full of grace and truth. (John 1:14) ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。
John is declaring that God's glory was revealed in Jesus. ヨハネは、神様の栄光がイエス様の中に明らかにされたことを宣言しています。
Jesus Himself is God. イエス様ご自身が神様です。
He came into this world. 神様がこの世界に来てくださいました。
He came to the people of this world. 神様はこの世界の人々のところに来てくださいました。
Jesus came and displayed God's glory among the people of this world. イエス様は来てくださり、この世界の人々の間に神様の栄光を表してくださいました。
This glory of God's was revealed through grace and truth. この神様の栄光は神様の愛と真実を通して明らかにされました。
What is Jesus like? イエス様とはどんな方でしょう?
Jesus is full of grace and truth. イエス様は神様の愛と真実で満たされています。
So, how did Jesus reveal His grace and truth to the Samaritan woman at the well? では、イエス様はどのようにして、井戸でサマリアの女に、神様の愛と栄光を明らかにしたのでしょう?
Jesus knew everything about this woman. イエス様はこの女についてすべてをご存知でした。
Jesus understood this woman. イエス様はこの女のことを理解していました。
Now, the word “understand” is actually two words: 「understand」という単語は、実は二つの単語です。
“Under” and “stand.” 「under」と「 stand」です。
So, to understand someone is to stand under that person. だから、誰かを理解することはその人の下に立つことなのです。
It means to lower yourself – not just to come down to their level, but to put yourself lower than that person. それは自分自身を低くすることです。ただその人のレベルに合わせるだけでなく、その人よりも自分自身を低くすることを意味します。
It means to put that person above yourself. 自分自身の上にその人をおくことを意味します。
In other words, to understand someone means that you serve that person. 言い換えれば、誰かを理解することはあなたがその人に仕えることを意味します。
And this is what Jesus did. このことこそが、イエス様がどんな方か、ということです。
Do you remember what happened when the Samaritan woman first met Jesus? みなさんは覚えていらっしゃるでしょうか?サマリアの女がはじめてイエス様に会ったとき何が起こったでしょう?
She had gone to the well to collect water. 彼女は水をくむために井戸に行きました。
Let’s turn back to when they first met. 彼女らが初めて会った時のことを思い出してみましょう。
When a Samaritan woman came to draw water, Jesus said to her, "Will you give me a drink?" (John 4:7) ひとりのサマリヤの女が水をくみに来た。イエスは「わたしに水を飲ませてください」と言われた。
Jesus asked her for a drink. イエス様は彼女に水を一杯飲ませてくれるように頼みました。
He was asking her for a drink from her own drinking vessel. イエス様は彼女自身の器から水を飲ませてくれるように頼んでいました。
The woman was certainly not expecting this. 女にとって予想外のことであったのは、明らかでした。
By asking the Samaritan woman for a drink, Jesus was breaking deep religious and social customs. サマリアの女に水を飲ませてくれるように頼んだことにより、イエス様は深く根づいていた宗教観と社会の慣習をこわしました。
Why did He do that? イエス様はなぜそのようなことをしたのでしょう?
Did Jesus really need a drink that badly? イエス様はそれほどまでに水を必要としていたのでしょうか?
Did He really need to ask that woman for a drink? イエス様は本当にその女から水を与えられることを必要としていたのでしょうか?
His disciples had gone into the town to buy food. 弟子たちは食べものを買うために町に行っていました。
But the well would have only been a short distance from the edge of the town. しかし、その井戸は町のはずれからそう遠くはないはずでした。
It was not far, so Jesus knew that His disciples would return soon. 遠くではなかったので、イエス様は弟子たちがすぐ戻ってくることを知っていました。
Was He really dying of thirst? イエス様は死ぬほどのどが渇いていたのでしょうか?
Surely He could have waited. イエス様は待つことができたはずでした。
Furthermore, it would have been common sense for at least one of Jesus’ disciples to wait at the well and look after Him. さらに、少なくともイエス様の弟子の内の一人が井戸のところで待っていて、イエス様の御用をすることができたはずでした。
If Jesus was really in such poor condition, wouldn’t His disciples have stayed to draw water for Him? もしイエス様が本当に体調がすぐれなかったなら、弟子たちはイエス様のために水をくむためにそこにとどまったのではないでしょうか?
But all of His disciples had gone into the town, leaving Jesus alone at the well. しかし、弟子たちはみな、イエス様を一人、井戸のところに残して、町へ行ってしまいました。
This was Jesus’ purpose. これこそが、イエス様の目的でした。
Jesus wanted to be alone. イエス様は一人になりたかったのです。
Jesus had planned to talk to that woman. イエス様にはその女と話そうという計画がありました。
Jesus had purposed to ask her for a drink. イエス様には彼女から水をもらおうという目的がありました。
But it was not for His own sake. しかし、それはイエス様ご自身のためではありませんでした。
Jesus asked the Samaritan woman for a drink of water, from her own container, for her sake. イエス様はサマリアの女に彼女自身の器で、水をくれるように頼みました。彼女自身のためでした。
You see, who else would ask that woman for a drink? つまり、その女に水を望む人がいなかったということでしょう。
John tells us at the beginning of this story that Jesus had to travel through Samaria. この物語の冒頭部分でヨハネは次のように語ります。イエス様はサマリアを通って旅をしなければならなかったのです。
Jesus knew that the Samaritan woman would be at the well. イエス様はサマリアの女が井戸のところにいることを知っていました。
Jesus wanted to meet her there. イエス様はそこで彼女に会いたかったのです。
Jesus wanted to help her. イエス様は彼女を助けたかったのです。
He wanted to give her His grace . イエス様は彼女に神様の恵みを与えたかったのです。
And this is how He did it. これをイエス様はどのようになさったでしょう?
Jesus asked her for a drink – from her own cup. イエス様は彼女自身の器から、水を飲ませてくれるように頼みました。
Jesus was establishing relationship with her. イエス様は彼女との関係をつくろうとしていました。
He didn’t push Himself as being superior to her. イエス様は、ご自身が彼女より優位であることを押しつけませんでした。
He didn’t even force His solution on her. イエス様は彼女に問題の解決方法を押しつけることさえしませんでした。
Can you imagine if Jesus had waited for the woman at the well; イエス様がこの女のために井戸のところで待っていたなんて想像できますか?
and then when she arrived, He jumped up and called out to her. そして、彼女が井戸に着いたとき、イエス様はさっと立ち上がり、彼女に呼びかけました。
“Hey, I know who you are. 「私はあなたが誰であるか知っています。
I know everything about you. 私はあなたのことを何でも知っています。
I know all of your problems. 私はあなたの問題をすべて知っています。
I know what everyone thinks of you; 私はあなたがほかの人にどのように思われているか、知っています。
“Yeah, I know everything! そう、私はすべて知っています。
“But don’t worry, I have come to fix your problems. でも心配しないでください。私はあなたの問題を解決するためにやってきました。
I have come here to make you happy. 私はあなたをしあわせにするためにここに来ました。
Trust me!” 私を信じてください。
Would you be happy to have someone come and tell you that? 誰かがやってきてそんなことを言われたらうれしいですか?
Would you open your heart and share your most intimate secrets with them? あなたは心を開き、あなたの一番深いところにある秘密を分け合いますか?
It’s a very one-way, condescending approach. それはとても一方的な、見下すような方法です。
The speaker is basically saying: “I’m good. I’m right. You are not. 話し手は、つまり「私は良い、私は正しい。あなたはちがう」と言っています。
It is setting up a hierarchy of superiority and inferiority. 上と下という関係を作ってしまうということです。
This is not standing under someone to help them with their needs, 人の必要にこたえるということのために、その人の下に立つということではありません。
It is standing over them and using their situation to draw attention to yourself. 自分が注目されるために、その人の心境を利用して、その人の上に立つことです。
It puts the spotlight on what you think is right about yourself. 自分が、自分自身の中に正しいと思うことに焦点を当ててしまうことです。
This is what Jesus so fiercely criticised in the Pharisees. そのことこそイエス様がパリサイ人について非難したことでした。
But there at the well, Jesus did not stand over the woman. しかし、その井戸で、イエス様は彼女より優位に立とうとはしませんでした。
He stood under her. イエス様は彼女の下に立ちました。
He understood her. イエス様は彼女を理解しました。
He served her. イエス様は彼女に仕えました。
Jesus loved the woman with the love of God. イエス様は神様の愛でその女を愛しました。
He came to help her. イエス様は彼女を助けるためにやってきました。
He came to share grace and truth with her. イエス様は彼女とともに神様の愛と真実を分け合うためにやってきました。
He came to give to her! イエス様は彼女に与えるためにやってきたのです。
But grace and truth is not just giving. しかし、神様の愛と真実は与えることだけではありません。
Love is not simply a one-way transaction. 愛はただ一歩通行のやりとりではありません。
Sometimes, people say that love is sacrifice. 時に、人々は愛は犠牲だと言います。
Friends, love is not sacrifice. みなさん、愛は犠牲ではありません。
Love involves sacrifice. 愛には犠牲が伴われることもあります。
But sacrifice is not the exact equal of love. しかし、犠牲は愛そのものではありません。
Just think about it. ちょっと考えてみましょう。
Have you ever tried to help someone close to you – for a long period of time. 長い期間、親しい人を助けようとしたことがありますか?
You give, and you give, and you give to them. その人に与えて、与えて、与え続ける。
You completely suppress your own desires to do things for that person. その人のために、自分の欲望を完全に押さえつけてしまいます。
You sacrifice yourself for them. その人のために自分自身を犠牲にします。
But never once do you get even a “thank you” from them. しかし、その人から「ありがとう」という言葉なんか一度ももらえません。
And then one day, you finally explode: そこである日、ついに自分が爆発します。
“All this time, I have done this, and this, and this, and this for you…” 「ぼくはず~っとあなたのためにこれと、これと、これをやってきたのに・・・。」
Friends, love, in relationship, needs to be able to receive, as well as to give. みなさん、関係の中で、愛は与えるだけでなく、受け取る必要もあります。
Love involves both giving and receiving. 愛は与えることも受け取ることも伴うのです。
Love without receiving runs out of the ability to give. 受け取ることのない愛は、与える力を失います。
Continued one-way sacrifice leads to burn out, resentment and bitterness. ずっと続く一歩通行の犠牲は、燃え尽き、妬みと苦々しさにつながります。
This was the problem of the older son in the parable of the Prodigal Son! これは放蕩息子のお兄さんの問題でした。
The older son didn’t receive the Father’s love. お兄さんはお父さんの愛を受け取りませんでした。
So, he lived, and he worked, without love. だから、お兄さんは愛なしで生活しながら働きました。
Everything was an obligation to him. 全てが彼にとって義務でした。
And so he could not share in the joy and freedom of the relationship with his father. だから、彼はお父さんとの関係において、喜びと自由を体験することができませんでした。
The problem wasn’t that the father had no love for the son. 問題は、お父さんが息子のために愛を持たなかったことではありませんでした。
The problem wasn’t that the father’s love was inaccessible to his son. 問題はお父さんの愛が息子にとってわかりにくいものだったというわけでもありませんでした。
The problem was that the son’s pride prevented him from recognizing his father’s love. 問題はお父さんの愛に気づくことを息子のプライドが妨げたことにありました。
So, his pride stopped him from seeking and receiving his father’s love. だから、彼のプライドはお父さんの愛を求め、受け取ることを拒絶してしまいました。
Is there anything in our own lives that prevents us from being able to innocently recognize love in other people for what it is? 自分の心の中で、他人の中にある愛を素直に、純粋に、認めることを拒むことがないでしょうか?
Is there something in our own hearts that prevents us from receiving and responding to acts of love from others around us? 自分の心の中で、他の人から愛の行為を受け取り、応答することを拒むことがないでしょうか?
It is important for us to take responsibility for our own selves. 自分のことに責任をとることは、もちろん大切なことです。
It would be immature and problematic if we dumped every single worry or problem on the people around us. もし自分の心配や問題をぶつけたとしたら、未熟であり、問題となります。
But trying to be responsible for ourselves is not the same as being unable to accept help from others. でも、自分のことに責任を持とうとすることは、ほかの人からの助けを受けられないこととは違います。
If we insist on saying that we are always alright, we shut others off from us. もし自分がいつも大丈夫だと言いきったら、他人を拒否することになります。
We refuse to receive from them. 他人から受け取ることを拒絶することになります。
And we also refuse to allow them the chance to give to us. その人は自分自身に与えることをも拒絶するのです。
In other words, we don’t accept love from others; つまり、ほかの人からの愛を受けとらないのです。
And we prevent others from showing meaningful love to us. そして、他人に自分に対して愛を示すことをも拒絶します。
This is isolating for both us and the people around us. これは自分も周りの人も孤立させます。(孤独にさせます)
In fact, Jesus bluntly pointed this out to Peter in its most extreme form. 事実、イエス様はペテロにこのことを極端に(はっきりと)率直に告げました。
It happened just after Jesus and His disciples had eaten what we call the “Last Supper.” これは、いわゆる最後の晩餐と言われる食事をイエス様と弟子たちが食べた直後に起こったことです。
After that, he (Jesus) poured water into a basin and began to wash his disciples' feet, drying them with the towel that was wrapped around him. それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。
He came to Simon Peter, who said to him, "Lord, are you going to wash my feet?" こうして、イエスはシモン・ペテロのところに来られた。ペテロはイエスに言った。「主よ。あなたが、私の足を洗ってくださるのですか。」
Jesus replied, "You do not realize now what I am doing, but later you will understand." イエスは答えて言われた。「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」
"No," said Peter, "you shall never wash my feet." Jesus answered, "Unless I wash you, you have no part with me." (John 13:5-8) ペテロはイエスに言った。「決して私の足をお洗いにならないでください。」イエスは答えられた。「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」
Jesus was telling Peter that he had to allow Jesus access to his problem areas. イエス様はペテロに自分の問題となるところをイエス様から隠してはいけないと、イエス様は教えていました。
He had to allow Jesus to wash Him clean. ペテロはイエス様に自分の穢れを洗い流させることをしなければならなかったのです。
So, for Peter to love Jesus, Peter had to actually give his sin over to Jesus. ペテロがイエス様を愛するには、ペテロが自分の罪をイエス様に明け渡すことが必要でした。
Only when Peter gave his sin to Jesus would he be able to receive the forgiveness for that sin from Jesus ペテロが自分の罪を明け渡すことによってはじめて、彼はイエス様から罪に対する赦しを受け取ることができるのです。
Jesus showed here that love involves both giving and receiving. イエス様はこのことを通して、愛が与えることも受け取ることも含んでいることを教えました。
Jesus really wants for us to actively receive His love. イエス様は本当に神様の愛を受け取ることを望んでいます。
Jesus wants us to personally connect with us, so that we will be filled and overflowing with His love. 私たちが神様の愛で満たされ、その愛があふれ出るようになるために イエス様が私たちと個人的につながりたいのです。
That is what will bring us our deepest satisfaction. それこそが、私たちにもっとも深い満足感をもたらします。
That’s what will make us become like Jesus. それこそが、私たちをイエス様のようにしてくれるものです。
And that is what will bring God the greatest glory. そして、それこそが神様にもっとも偉大な栄光をもたらすものです。
Jesus opened the heart of this Samaritan woman to receive His love by first giving her the opportunity to do something for Him. イエス様は自分のために何かをする機会を最初にサマリアの女に与えることで、イエス様の愛を受け止めるために彼女の心を開きました。
Jesus asked the Samaritan woman at the well for a drink of water. イエス様は水を一杯くれるようにサマリアの女に頼みました。
Jesus was giving this woman the opportunity to help Him. イエス様は自分を助ける機会をこの女に与えていました。
Jesus was giving this woman the chance to serve Him. イエス様は自分に仕える機会をこの女に与えていました。
So, Jesus showed His love for the Samaritan woman by receiving a drink from her. つまり、イエス様はサマリアの女から水をもらうことを通して彼女に対する自分の愛を示しました。
Jesus made it possible so that He could receive something from her. イエス様は彼女から何かを受けることができることを可能にしました。
The way that Jesus showed grace to this woman, was to give her the opportunity to give to Him. イエス様がこの女に恵みを示した方法は、自分に何かを与える機会を彼女に与えることでした。
Who else would this woman have been able to serve? ほかのだれかにこの女は仕えることができたでしょうか?
Who else could she have been able to meaningfully give to? ほかのだれかにこの女は意味のあるものをあたえることができたでしょうか?
Who else would have been prepared to receive from her? ほかのだれが彼女から受け取ることを許したでしょうか?
But never mind other people; しかし、人と言わずに
What could this woman have ever possibly had to give to God? この女はいったい神様に何か与えるものがあったのでしょうか?
What could this woman have ever had that could have possibly been pleasing to God? この女は神様が喜ばれるものを持っていたことがあったのでしょうか?
But Jesus asked this woman for a drink. しかしイエス様はこの女に水を一杯頼みました。
Jesus was showing that love, grace, involves lowering one`s self and raising the other person up. 愛と恵みには自分を低くし、相手を上に立たせることが含まれると教えています。
It involves giving other people the opportunity to give and therefore be appreciated. 愛と恵みには人に感謝してもらえる機会を与えられることも含まれていることを教えていました。
Even though the religious and social customs drew a line to clearly keep people apart; たとえ宗教と社会的慣習が人と人を突き放す線を引いてしまうとしても、
Jesus crossed that line, Jesus erased that line, to show God’s mission to bring people together. イエス様は、神様の人を和解させる使命を示すために、その線を越し、その線を消しました。
Jesus did this for the Samaritan woman. イエス様はサマリアの女のためにこれをなさいました。
And Jesus does this for us. そして、私たちのためにもしてくださいます。
So, how can we look like Jesus? では、どうやったら私たちはイエス様のように見えるのでしょう?
Surely it is by loving. やっぱりそれは愛することによります。
But love involves both giving and receiving. しかし、愛は与えることも受け取ることも含みます。
And as we have just seen, this includes lowering one`s self and raising the other person up. そして、今見てきたように、愛と恵みには自分を低くし、相手を上に立たせることが含まれています。
It involves giving other people the opportunity to give and therefore be appreciated. 愛と恵みには人に感謝してもらえる機会を与えられることも含まれています。
But first of all, it means giving ourselves, surrendering ourselves, into the outstretched, loving hands of Jesus. しかし、まず第一にイエス様がさしのばしてくださっている愛なる御手に自分自身を捧げること、委ねることを意味します。 So, I would like to finish by reading 1 Peter 5, verses 6 and 7 together. そのことを心に留めながら、ペテロ第一5章6節、7節をみなさんとご一緒に読んで終わりたいと思います。
Humble yourselves, therefore, under God's mighty hand, that he may lift you up in due time. ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。
Cast all your anxiety on him because he cares for you. (1 Peter 5:6-7) あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。
Let’s pray:
Father God, 天のお父様、 Thank you for showing us how You showed Your grace to the Samaritan woman. サマリアの女にあなたの恵みをどういう風にお与えになったかを教えてくださりありがとうございます。 Thank You for showing this same grace to us. その、同じ恵みを私たちにも与えてくださり本当に感謝します。 Please help each of us to really understand how much value each of us has in Your eyes. あなたの目には私たしたちはどんなに高い価値のあるものかを理解することができるように、どうか私たちの目を開いてください。 Open our hearts to Your love. どうぞ、私たちの心をあなたの愛に開いてください。
Please help each of us topersonally know Jesus. 私たち1人1人がイエス様を個人的に知ることができますように助けてください。 I pray that you will help each one of us to receive Your cleansing love 私たちを聖めてくださるあなたの愛を私たちが受け止めることができるように助けてください。 Help us to daily surrender ourselves into Your care 私たち自身を日々あなたの御手に委ねることができるように、 that we will receive healing, for our own hearts, and strength to love others. 自分の心の癒しと、他人を愛する力をいただくことができるようにどうぞ助けてください。